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日本を裏から操る二階俊博とは?~和歌山県議時代~【政治家解説シリーズ#1】

 

二階俊博 県議時代編!】

 

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二階俊博

二階俊博自民党幹事長

いわずとしれた実力者で安倍前総理大臣の退陣から菅総理大臣の就任までの流れを作った人物です。

そんな彼がどのような人生を送ってきたのか紹介していきます。

 

1939年2月和歌山県御坊市で生まれる。

父、俊太郎は戦前、木造船会社を起こし、和歌山県議会議員にもなっており村長まで務める人物でした。

 

しかし1945年8月、小学1年生であった二階は日本敗戦を経験します。

 

二階氏はこの敗戦という言葉にこだわりがあり「日本ではよく終戦というが、敗戦といった方が心が整理される」と文芸春秋11月号のインタビューで答えています。

 

私も全くその通りだと思います。日本は戦争に負けたということをしっかりと認識し、反省するには終戦ではなく敗戦という言葉が適切だと思います。

 

敗戦というワードを強調するだけあり、当時の二階氏の環境が大きく変わりました。

二階氏の父親はこの時公職追放の対象になり、小学校のPTAにすら参加できない状況で周りからは冷ややかな目で見られていたそうです。

 

その後、二階氏は高校の恩師の「東京で政治家や文学者、経済人などいろんな人に会える」という言葉に影響され、父親の母校でもあった中央大学法学部政治学科に進学します。

 

大学卒業後は建設大臣を務めた遠藤三郎の秘書として11年働き、1975年36歳になった二階氏は和歌山県議会議員選挙に立候補、当選しついに政界に入ります。

 

この時の選挙はとても強烈なものでした。

当時の対立候補として25歳も年上のベテラン現職県議がいました。

二階氏の父親である俊太郎氏を政界引退にまで追い込んだ人物でした。

しかし、二階氏は今に続くの選挙の強さを発揮し、110票差で見事勝利することができました。

 

当選後の二階氏は暴れました。

初当選したあと同期の県議たちと清新クラブという会派を結成、自民党議員でありながら、

社会党公明党を引き入れ議長と副議長を決める過半数を手に入れました。

 

その時、当時の自民党県議から委員長のポストを渡すから、議長と副議長のポストを分けてくれと口説かれたそうです。

 

当時、「和歌山県知事が2人いる」と周りから言われるくらい二階氏の影響力はすさまじいものでした。

 

この行動力の原点はなんだったのかそれは後に師として仰ぐ「田中角栄」の影響があります。

 

二階氏が県議選に立候補する3年前「日本列島改造論」が出版されました。

田舎に道路、新幹線を通し風景を一変させるダイナミズムに、二階氏はとても感銘を受けたそうです。

 

二階氏は東京から名古屋まで東名高速道路が建設される姿をみて、当時高速道路がない地元和歌山県のみじめさ、格差にひどく怒りを感じていました。

 

そして和歌山県議会で二階氏は「紀州一周高速道」を提唱します。

しかし、一県議が高速道路を誘致するのは並大抵のことではありません。

 

二階氏はまず建設省道路局に乗り込み官僚を講師として捕まえ、高速道路の勉強会を開催しました。

 

建設大臣の秘書を11年していた経験と人脈がここで生かされ、県議でありながら霞が関で勉強会を開催することができました。

 

この時、建設省の室長に「田中角栄みたいになるぞ」とまで言わしめたそうです。

 

二階氏の県議での動きから後の国政進出の下地が見えますね。

 

今日の記事は以上になります。続きはまた明日